自称カタチクリエーターの伊丹谷です。
モノデザインというサービスをローンチした。

モノデザインウェブサイト

ウェブサイトにしたところで、特に何の変哲もない、配信事業の告知ウェブサイトです。

本事業は盟友である、世阿弥Entertainmentの横山氏と多くの映像制作関係者チームで立ち上げました。

4月、緊急事態宣言が発令され、エンタメ業界に先行きが見通せない黒い影が落とされた…わけではないと思う。エンタメは、結構前からコンテンツ提供の方法に行き詰まりを感じていたように思う。

メジャーの広告投下型のプロモーションが主流の90年代から、インターネットの世界に変遷し、選択肢が膨大な量に増えた。

当然インターネットというのは発展途上のインフラなので、わかりやすくいうと、コンピューター、スマートフォンの性能や、インターネットの通信速度に大きく左右される。

そこに、サービスのあり方を「掛け算」することができるので、爆発的に成長するコンテンツが生まれる。ここでいうコンテンツというのは、何か特定のものではない。コンテンツ=エンタメでもない。

日本の場合は、ニコニコ動画から多くのネタ動画・MAD動画、歌い手文化が生まれ、YouTuberが誕生する前から、エンタメの中に食い込み、青田買い状態も功を奏して独自の成長を遂げた。現在の人気コンテンツホルダーの多くは、このニコニコでのアーリーアダプター層の自作自演コンテンツが出自のパターンも多く散見される。米津玄師なんかはそうなんだろう。(細かいツッコミはやめて・笑)

前置きで文字数を稼ぐという手法を覚えたので、浅い知見はこの程度にして。

要は、配信の需要がありえないくらい上がった。しかし機材は売ってない、使える人もない、ディレクションもできない、目的も手探り、手弁当に大義で参加する有能な裏方。すでにこの需要増加の前より何かしらのコンテンツを作っていた人は、現在の配信バブル(といっても採算あってないけど)の寵児を目指し、日々コンテンツを投下している。

また同時に、コンテンツを享受する側も十分に見る目、楽しみ方を理解できていない。理解できていないということは、何が楽しいかを言語化できない。本来、享受する側というのはそういうものなので、需要と供給のバランスが非常に偏って顕在化している。

そもそも、ファンを持つということは、コンテンツの要であると思う。本質的なことを言ってしまえば、ファンサービスを行い、価値を金銭と交換し、さらにファンに喜んでもらう。コンテンツではそれが基本になる。

今、自分が確認できている配信で一番思うのは、これはファンの獲得につながる本質的な要素は何なのか。ということ。

もちろん、イチナナやツイキャスなどのファンインタラクティブな構造は、一時的なファン獲得・利益をもたらしてくれるであろう。

プラットフォームとしても最終的に残るのは、YouTubeやFacebookだと思うが、プラットフォームで人を囲えていない日本のコンテンツで勝ち残る(この場合の勝ち残るというのは、世界の中でという意)のは至難の技だ。

言語的マイノリティもある。日本人の配信は日本語での提供である以上、日本人しか見ない。しかしながら、経済規模的にも世界的に自国通貨を持ち、安全安心がほぼ無料で手に入る日本では、困ったことに内需である程度経済が回ってしまう。

話をエンターテイメントに戻そう。

エンターテイメントとは、一体何を提供するものなのか。享楽的な娯楽なのか。シルクドソレイユが倒産した。シルクドソレイユを一言で言ってしまえばサーカスだ。サーカスが興行ができずに倒産した。それは本質なのか。

音楽におけるジャンルで、世界的に見ても、ジムモリソン、カートコバーン、マイケルジャクソンなどが遺してきたものは、非業の死がもたらした死人ビジネスでは無い。

彼らが遺してきたものは目に見えない。いろんなところにきっかけとして存在している。平たく言えば、彼らを見て何かを感じ、その世界に足を踏み入れて成功したアーティストや辞めてしまったけれど他の業界で代理的に実現した普通の人々も多くいるだろう。

シルクドソレイユが誇る数字は、もちろん興行的な動員数や収益で語られるべき側面ももちろんあっていいが、超人的なパフォーマンス、言語化できない感動を見た人たちが日々の生活に何らかの形で還元する。それがスマホケースであったり、着る洋服だったり、行動だったり、思想だったりする。

これと言った形が残らないのだ。

今のライブ配信が、そういったものを享受できない構造になっているとは思わない。先にも述べた通り、未成熟なのだ。採算があっていないから才能が活かされない。

イチナナなどの一部のライバー活動は、ほぼコンテンツに囲い込まれるので、それ以外の露出は圧倒的に制限される。一方、一斉を風靡したYouTube系のタレントエージェントは、タレント自体が自己プロデュースとコンテンツ制作力を備えてしまい、エージェントの影響力も一部にのみに限られるので、簡単に離脱してしまう。要するに、自分でやったほうが早いのだ。

とどのつまり、配信から収益を目指してスタートしてしまうとゴールが無い。だから自分で作らないといけなくなってくる。これは高尚な思想にも行動にもなると思う。ある種宗教に近いもので、ファンを喜ばせるというのは、一つの側面としてそう言った要素が色濃い。

おそらく、現時点での配信で利益を上げるのはそんなに難しいことでは無いと思う。しかし、その要因が、その配信者のバックグラウンドに寄りすぎてしまい、それ以外の配信者が埋没、もしくはものすごくマイノリティ化してしまう。

俺の思う、エンタメの死は、こういった環境が起こすマイノリティ化で、収益に走ってゴールのない道を目指すか、無理して続ける or 辞めるしかなくなることに近い。

昨日もあるライブハウスのスタッフと話をしていて、ライブ実施の際、ガイドラインを設けてキャパ50%まで入れていい。とあったとする。しかし、インディーズで食えてなくて、素晴らしい才能を持った人たちが50%以上の集客をできている事例がどれだけあるのか。くどいがこれはコロナより前からの話である。その半分の人数を喜ばせること(喜ばせた結果、集客が増える)と配信で見ている人をファンにすることの本質的な違いは今のところ見つからない。

要するに今まであったものを単に配信に変えようと動きが本当に馬鹿らしく無意味で非効率だと思う。

配信にしないといけなくなったのであればその行為の本質を考え、どういったコンテンツを提供すべきなのか、演者はもちろん裏方も考えないといけない。

くどい、くどいけど、それでは採算が合わないのだ。。。

グッズをつけよう、ファンと交流しよう、投げ銭させよう、サブスク、云々。もちろんそれは間違っていないし、やるべきだ。イチナナだって素晴らしいコンテンツだと思う。

何を提供するべきなのか、コンテンツ提供者は決断に迫られている。選挙で密な演説は許されてもフェスは許されない。

話が脱線し、大きくぐるっと一周回って、モノデザインという映像配信チームの事業を立ち上げた。
スタッフは、大阪でも一線で活躍し、どちらかといえば、他の現場ではあまり見ない、良いようにいえば猛者、どちらかといえば曲者揃いだ。

このサービスは、俺はディレクションサイドなので、現場でスイッチを押して云々というわけではないが、配信を必要と思っている人たちと、どうやってそのクライアントの事業を継続させていくかを真剣に一緒に考えていきたいと思う。

事業でこういう言い方をするのもアレだけど、勉強させてほしいと思っている。もちろん、価格は業界的には適正価格だ。というか、大阪は東京と比べて随分と人件費が安い。上げたいのは山々だが、今はそれよりもこの業界を本物にしていくことを第1ゴールとして事業を進めていきたい。

完璧ではないかも知れないし、俺ら自身も手探りで進めていく事業だ。儲かるから配信やりましょうという気はない。

もちろん予算が潤沢にあって、配信の目的がしっかり決まっていて、喜ばせる対象がしっかりしている案件も大歓迎だ。潤沢な予算は裏方にしっかり回す。彼らが食えないと、エンタメのが死ぬ前に足場が崩れてしまう。

会社の納会、株主総会、セミナー、宗教関係、スポーツ。何でも大歓迎だ。

世阿弥Entertainmentは、グッズ事業の他、音楽関係の配信における事務手続きのお手伝い、物販のプロデュース、デザインもできる。

ノウハウ・経験とスタッフ、機材はある。

よろしければ、皆さんの周りででも困っている人がいらっしゃったらぜひご紹介ください。