自由、それは果てのない束縛から始まる

とまぁ、連続して大層なタイトルでおますが、何より最近横尾忠則さまのツイッターに多大なる影響を受けており、昨今の環境の中で、自分の平常心を保つためにも、ある程度こんな感じの塩梅が丁度良いのでございます。

そう、今日は、いかに自由というものが、束縛の中に成り立っているかというお話であります。

嘘、そんな話をしたいのではなく、何でもかんでも好き勝手やっている人に限って、「何やっても良いよ」って言われたら何にも出来ないという話でもない。

地面がある、重力がある、空気がある、命がある、とまぁ挙げればキリの無い俺らの日常の束縛。
その中で、好きなものを食い、好きなことをやり、好きなことを話す。

はたと大事なことに気がつく。
自由というのは、与えられるものであると。

モノは考えようとは言うが、決められた枠がルールなら、その中で何をやっても良いというのが自由。

枠が無く、好きなことをやるのは、自由というのか、我が儘というのか。

ってか、枠って何?ルールって何?
空気や重力のように元からあった訳ではなく、常識やモラルと同じように、人が決めた価値観。

なぜ、初めからないものをわざわざ作ってまで、その中で生きようとするのだろうか。
少なくとも、前述の通り、意外と「 何やっても良いよ」って言われたらオロオロするよな。

運命と決めつけるのも、これまた「枠」なんだな。

そういえば、「枠(わく)」と「粋(いき)」って似てるよな。なんて考えながら、枠にとらわれず、束縛をうまく利用する方向で、前へ進みたい。

うん。難しいことは分からんが、恩大の言葉を寝る前に一つひとつ噛み締めて、眠るのである。

考えるのではなく、感じてほしい。感覚に素直なのは、モノ作りで非常に重要なこった。

カテゴリー: 仏の心, 日常   パーマリンク

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